大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和62年(合わ)235号 判決 1989年5月19日

主文

被告人は無罪。

理由

一  本件公訴事実は、「被告人は、昭和六二年一〇月一二日午前七時ころ、東京都北区赤羽台<住所省略>の自宅において、父A(当時八九年)及び母B(当時八七年)を殺害して自殺しようと決意し

(一)  所携の文化包丁(刃体の長さ約一七.五センチメートル)で、右Aの頸部を突き刺すなどし、よって、即時同所において、同人を頸静脈損傷により失血死させ

(二)  右文化包丁で、右Bの頸部を突き刺すなどし、よって、即時同所において、同人を頸動脈損傷により失血死させ

たものである。」というのであり、右の各事実は、被告人の当公判廷における供述、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書、C、Dの司法警察員及び検察官に対する各供述調書、Eの検察官に対する供述調書、F、Gの司法警察員に対する各供述調書、司法警察員作成の検証調書、司法警察員作成の実況見分調書、司法警察員作成の各検視調書、東京都監察医上野正彦作成の各死体検案調書、司法警察員作成の捜査報告書、司法警察員作成の「死体解剖医師聞取り報告書」、「死亡確認報告書」、「殺人事件再現結果報告書」と題する各書面、東京大学医学部法医学教室医師石山昱夫作成の鑑定書、押収してある文化包丁一丁(昭和六二年押第一五〇八号の1)によってこれを優に認めることができる。

二  しかるところ、当裁判所は、被告人のこれまでの精神病歴、本件各殺害行為の異常性、本件事案の重大性等にかんがみ、公判段階で二回にわたり被告人につき精神鑑定を行うなど慎重な審理を尽したが、その結果、被告人は、右各行為当時、内因性躁うつ病のうつ病相期にあり、その精神障害の程度も重く、是非善悪を判断しこれに従って行動する能力を喪失していた状態にあり、本件各殺害は責任能力を欠く者の行為としていずれも罪とならない、と判断したが、その理由は以下のとおりである。

即ち、前掲関係各証拠のほか、証人Hの当公判廷における供述、H及びIの司法警察員に対する各供述調書によれば、(1)被告人は昭和一一年ころ東京都内の小学校を卒業した後、兵役は経たものの、主として旋盤工として稼働し、同三一年には妻Cと結婚して二人の女子をもうけたが、従来どおり肩書住居地の自宅において実父A、実母Bの両親と同居を続け、同五八年ころには勤務先の会社を定年退職し、年金等でその生計をたてていたところ、同六〇年一一月ころ以降は子供らが独立したので、妻と協力して、高齢のため足腰等が弱り意思疎通等にも不自由をきたすようになっていた両親(実父は脳溢血のため言語障害の後遺症が残り、実母は軽度の老人性痴呆)の世話をみていたこと、(2)ところで、被告人は性格温和で真面目、無口の人物であったところ、同四五年ころ勤務先の会社内の人間関係等がうまくいかないとして精神不安定になり、右会社を休んで精神科の病院に一か月間程通院したことがあり、その後も同五二年ころと同五九年一月ころの二回にわたって、不安感、不眠等を訴えて神経科の医師の診察を受け、右二回の際にはそれぞれ憂うつ病、躁うつ病(うつ状態)と診断されて通院治療を受け、さらに同六一年四月ころからは乱暴な口調による多弁、濫買、不眠等の症状が発現し、入院した国立病院医療センターの精神科医からも躁うつ病(軽躁状態)と診断され、右退院後も通院しては投薬等の医療処置を続けて受けていたこと、(3)そして、さらに、被告人は同六二年五月ころからとりたてて原因がないのに今度は憂うつな気分におそわれ始め、同年八、九月ころになると無気力、不眠、食欲不振等の症状が著しくなるとともに、都営バスの高齢者に対する無料乗車券が次の更新期から交付されなくなるのではないかとか、約一〇年も前に建て増した自宅の浴室等が隣家との境界線を越えているのではないか、はたまた、右浴室部分についての固定資産税が未払いになっているのではないかなどと、それまで気にしたこともなかったような些細なことをあれこれと過度に思い悩むようになり、益々気分が落ち込むとともに、医師から処方された睡眠薬を服用してもよく眠れない日々が多くなり、一つの病院では不足に感じ複数の病院に通うなどもしていたこと、(4)このように気が滅入り不眠の症状等も続くうち、被告人は、それまで格別苦にすることなく、面倒見のよい妻の多大な手助けのもと、長らく深刻には程遠く日常的に行ってきたにすぎない両親(前記障害はあるも、いずれも、いわゆる寝たきり老人ではなく一人で起臥寝食はできる。)の世話がにわかに大きな重荷となり、これが高じて、両親の存在をうとましくさえ感じ出し、その挙句、両親がいる限り今後自らも生きていく希望もないなどと前途をいたく悲観し、同年一〇月上旬になると更に厭世的な気分が高まって、いっそのこと両親を道連れに自殺してしまおうかなどと漠然とは考えることもあったこと、(5)しかし、被告人はその実行の具体的な計画など全く立てたことはなく、同月一一日夜も、いつものように睡眠薬を服用した上自宅一階寝室で床に就き、翌一二日午前七時ころ目覚めたが、そのころ隣りで就寝していた妻も目を覚まし用便のため同室から居なくなると、突如、衝動的に、今のこの機会に決行しなければ、両親を道連れに自殺することはできないなどと決意するに至り、すぐに台所から文化包丁を持ち出して自宅二階の両親のもとに行き、何のためらいもなく次々と右包丁を用いて前記認定の各殺害行為に及び、その直後、自殺するため、右包丁で自らの頸部を数回突き刺し、失血のため意識を失ったが、妻の発見、通報により病院に運ばれ、その一命をとりとめたこと、を認めることができ、以上認定した各事実と鑑定人(東京医科歯科大学教授)中田修、同(帝京大学医学部教授)風祭元作成の各鑑定書及び証人中田修、同風祭元の当公判廷における各供述とを総合すると、被告人はかねてより内因性躁うつ病に罹患しており、前記のとおり、うつ病相、躁病相を経てきたところ、同六二年春ころからまたもやうつ病相が始まり、本件当時には右躁うつ病に起因する高度の抑うつ気分に支配されるに至り、不眠、食欲不振、取越苦労、行動の抑制等のうつ病相特有の諸症状に苦しむとともに、高齢の親とはいえ、前述のとおり、それまでさして苦にしていなかった両親の世話を急に非常に大きな負担と感じるなど、当時の状況を過度に悲観するようになっていた折、本件当日の早朝になって、両親を道連れに自殺しようといういわゆる「拡大自殺」の衝動が右のような病的抑うつ気分に基づいて発作的に発現し、その結果、右の衝動のおもむくまま何ら躊躇することなく、一気に本件各殺害行為に及んだものであって、その精神障害の程度は右のとおり重く、正常人の精神状態との間には非連続な隔絶があったことが認められるので、被告人は、本件当時、是非善悪を判断しこれに従って行動する能力を欠いていたことが明白であり、刑法上の心神喪失の状態にあったと言うべきであって、このことは、本件各行為の少し前被告人を最終的に診察している前記国立病院医療センターの精神科医も本件捜査・公判段階を通じ「被告人の行った本件各殺害を知った途端、被告人がうつ病に起因する『拡大自殺』の一環としてこれを行ったとしか考えられなかった。」旨卒直に供述している点からもよく裏付けられてもいるところである。

三  しかるに、検察官は、論告において、主として、被告人本人の捜査段階の自白及び被告人の精神状態につき起訴前に所要時間わずか二時間程度行ったにすぎない問診等を内容とするいわゆる簡易鑑定等に依拠しつつ、被告人は心神耗弱の限度で有責である旨主張し、その論拠とするところは、るる述べるが、要は、(1)被告人の両親殺害の動機形成には明瞭かつ合理的根拠があって了解可能であり、(2)本件殺害時の被告人の行動も妻の用便の隙を狙い、かつ抵抗されることをおもんばかって先ず父を手にかけ次いで母へとその殺害の順序を考慮しているなどそれなりに了解が可能であり、(3)本件各殺害直前に、被告人は自己の行為が社会的非難を受ける行為であることを認識し、その心理的かっとうを自殺しようということで克服していたものであって、これら諸事情を総合し、法的に判断すると、前記鑑定人中田、同風祭の両名がいずれも被告人を本件当時心神喪失であった旨判定したのは精神医学の専門家の意見にすぎず、これのみに従うのは相当ではない、というのである。しかしながら、責任能力の有無の判断が精神医学のみの立場からでなく、法的になされるべきであることなどはあらためて所論の指摘を受けるまでもなく至極当然のことであって、当裁判所も、それゆえに、本件各証拠に基づき、前述のとおり、被告人が重い内因性の躁うつ病に罹患し、そのうつ病相に起因して両親を道連れに「拡大自殺」敢行へと追い込まれていった経緯等を詳細に認定、説示し、その上で、もとより法的判断として、被告人の責任無能力を判定しているのである。また、検察官の主張中には、重篤な精神病者でもその行動のすべてが全く異常かつ通常人に了解不可能でない限り法的に責任無能力にならないかのような論調も感じられなくもないが、あえて証人中田修、同風祭元の各証言をまつまでもなく、いかに重い精神病者といえどもその全てが終始異常な行動をとり続けるものでもないことは言うまでもない上、被告人の本件における動機、その各行為等に所論のような了解可能性などのないことは既述のとおりであって、ひっきょう、検察官の所論はやや牽強附会のきらいのある独自な見解として採用するに由ないものである。

さらに、検察官の援用する簡易鑑定も、前記時間的制約だけからしても十分にして正確な診断はもともと困難であるのに、加えて、これを担当した医師はうつ病による「拡大自殺」の事例を鑑定したことのない者であり、そして、右医師は、前記二の(2)ないし(5)の被告人のこれまでの精神病歴の詳細、本件各殺害行為及び自殺行為の異常性に深い検討を加えることなく、被告人は本件当時、うつ病の病相期はおろか、うつ状態にさえないとして、被告人に完全責任能力を認める趣旨の診断をくだし、被告人の本件各行為は両親の存在が煩わしいため殺害した旨の「短絡行為」にすぎないと断定するもので、このような簡易鑑定に証拠価値を認めることなどはできないものである。

四  以上の次第であるから、刑事訴訟法三三六条により、被告人に無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官反野 宏 裁判官髙麗邦彦 裁判官平木正洋)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例